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金曜日, 5月 05, 2006

朝バッハ

僕は無宗教な人間なのだが、今年に入ってからほぼ毎日続いている朝の儀式がある。自分ではそれを心の中で「朝バッハ」と呼んでいるのだが、その名のとおり朝一番に J.S.バッハの曲を弾くというもの。
ウチにはピアノが無いし、鍵盤と音源モジュールとMIDIインターフェイスとミキサーとアンプを立ち上げて・・・というのは面倒なのでクラシックギターでやっている。鍵盤よりギターのほうが得意だし。バッハの曲は鍵盤で弾くのが筋かもしれないが、まあ仕方が無い。
起床し、血の巡りがある程度良くなったらまずギターを手にする。音叉で調弦をし指慣らしもせずに(本当は良くないのだが)とにかく最初にバッハの曲を弾くのだ。弾く曲は決まっていて無伴奏チェロ組曲第一番プレリュードト長調。音域の問題でニ長調に変えてあるが、適度に弾きやすく、アッパー過ぎずダウナー過ぎず私の朝には相応しい。そのうち他の曲も弾けるようにしようと思っているのだが、今弾けるバッハの曲はこれしかないという事情もある。別の曲を練習する前にもっと今の曲を弾きこなしてからとも思うし。ギターの上達が目的ではないし。
ところでこの「プレリュード」、我が家にギター用の楽譜は存在しない。サックス用のものならあるが、これはやはり楽器に合わせて移調してあり変ホ長調。それを EWI の練習用に原曲のト長調に直して吹いていた。非クラシック演奏家の(悪い?)癖で記憶だけを頼りにギター用に自分で編曲した。したがってチェロ用の譜面はおろか、ギター用すら持っていない。時々ソプラノサックスでも吹いてみるが、音域の都合で変ホ長調。これは清水靖明版のテナーサックス用と同じ運指なのだが、音域が違いすぎて妙な具合になる。ごくたまにエレキベースで弾いてみることもあるが、これなら原曲と同じ音域、同じキーで弾ける。というわけで私の頭の中には様々な調、音域のプレリュードが混在しているのだが、絶対音感の無さの恩恵であまり気にならない。
とにかく、この朝の儀式を始めてから無駄な一日を過ごしてしまうことが少なくなったような気がする。要は気持ちの問題で、床に就くときにある程度の満足感を持って寝られるというのが重要なのだ。気を抜くと単なる無用な人間になってしまう自分に音楽人としてのスイッチが入るのだ。
多分昔の日本人の朝もこんなものだったのだろうと想像する。私の祖母の家もそうなのだが、仏壇と神棚両方が奉ってある。毎朝水を換えご飯を換え線香をあげ祈る。日本人の曖昧な宗教的態度は褒められたり貶されたりするが、日常を円滑に運ぶためにはとても良い事だと実感している。余談だが、祖母の儀式は徹底していて、神棚仏壇の他にラジオ体操と掃除も加わる。善き人間、善き小市民としての生活がそこにある。
ところで、というか、実は、というか、この「朝バッハ」には手本がある。バッハは自分にとっての聖人の一人だが、他の多くの聖人の一人、パブロ・カザルスの真似なのだ。
カザルスの自伝のような本に書いてあった。彼は晩年の生活において、朝起きると海に向かった窓を開け放ち部屋の空気を入れ替え、ピアノでバッハの曲を弾いて家を清めるのが日課だったそうだ。こんな気持ちの良さそうなことは真似したほうが良い。別の聖人の真似をして死体になって川に浮くつもりはもちろん無いが。彼も凄く凄く大好きだけど。

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